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五稜郭の歴史

五稜郭公園は、箱館と五稜郭の歴史が繰り広げられた舞台の一角でした。黒船来航の後、徳川幕府が箱館と伊豆の下田を開港し、日本が長い鎖国の時代を終えた時、函館の近代史が始まります。世界に向けて開港された箱館は、大政奉還の後に起きた戊辰戦争の最後の戦場となります。明治政府の軍と敗走する幕府の軍とが戦闘を繰り広げ、新撰組の土方歳三をはじめ幕末を彩った人たちが箱館の各地で戦い、五稜郭の明け渡しまで続きました。この一時期を、箱館と五稜郭に焦点を当てて見てみましょう。

箱館開港

1853年アメリカのペリーが、軍艦で浦賀に来航し、幕府に対し開港と通商を求めました。「黒船」と騒がれた、黒塗りで巨大な軍艦は、一度日本を去りましたが、翌年再び日本を訪れました。幕府は箱館と伊豆の下田を開港することを決め、日米和親条約を結びました。ペリーの艦隊はその後蝦夷に向かい箱館に入港します。松前藩の家老たちは、巨大な黒船の威圧を受けながら、幕府からの命令で、応接と交渉を行いました。1859年箱館は正式に開港されました。

奉行所の設置

奉行所

外国との交渉にそなえ、幕府は、函館とその周辺5~6里を松前藩から取り上げ、さらに翌年、松前周辺を残して、蝦夷地全域を松前藩から取り上げてしまいました。外国との交渉を行い、蝦夷地を統治する役所として、現在の元町公園の辺りに箱館奉行所を設置しました。

五稜郭への移転

しかし、箱館奉行所が港の船から良く見え、標的になりやすいため移転することになりました。港から遠く艦砲射撃を避けられることなどを理由に、現在の五稜郭の位置に移転先が定められました。1857年から7年の歳月をかけ完成し、1864年箱館奉行所は元町から移転されました。

開港後の箱館

箱館奉行所は、西洋の学問を取り入れるため、学問所「諸術調所(しょじゅつしらべしょ)」を開いたり、家畜の飼育を奨励したり、造船や陶器生産など新たな産業を育成したりしました。西洋の産業や技術を取り入れる動きも起き、市内には初めて洋服店や写真屋ができたり、船舶が作られたりもしました。

箱館戦争

開国をめぐり倒幕の動きは激しさを増し、幕府は大政奉還しましたが、遂に戊辰戦争が勃発しました。戦場は東北地方を経て箱館に移ります。森町鷲ノ木に上陸した幕府脱走軍は箱館に進軍し、五稜郭を占領しました。1869年4月、明治政府軍が乙部に上陸し、箱館に向けて反撃を開始しました。箱館の各地で戦闘が繰り広げられ、新撰組副長だった土方歳三は戦死を遂げ、各地の拠点は陥落し、奉行所は港からの艦砲射撃を受けました。明治政府軍の総攻撃と降伏勧告で、幕府脱走軍は五稜郭を明け渡し、箱館戦争は終わりました。

五稜郭では……

大政奉還の結果、蝦夷地の支配権は箱館奉行から明治政府にすみやかに引き渡されました。蝦夷地を治める明治政府の役所として、箱館裁判所が設置されました。裁判所という名称ですが、現在の裁判所とは異なり、行政府として設置したもので、すぐに名称は箱館府と改められました。箱館戦争が始まると脱走軍に追われ青森に逃れましたが、明治政府軍の総攻撃で奪回した後は、箱館府が蝦夷地開拓を担うことになりました。

その後の五稜郭

その後、箱館府が蝦夷地の統治や開拓を進めることになっていましたが、明治政府は新たに開拓使という役所を設置し、箱館府を廃止します。同時に、それまでの蝦夷地を北海道に名称変更し、「はこだて」も「箱館」から「函館」に変更しました。開拓使は1871年に札幌へ移転することとなり、箱館奉行所の建物は取り壊され、五稜郭の跡地は陸軍省が管理していました。1914年に公園として一般開放されて以後、函館市民の公園として、観光の拠点として発展してきました。